【コラム】ペイシェントジャーニーが必要とされる背景を正しく理解しよう
患者さん視点での医療が重視されるにつれ、製薬企業のマーケティングではペイシェントジャーニーの重要性が高まっています。しかし、製薬業界で用いられているペイシェントジャーニーは、誤解が非常に多いように見受けられます。ペイシェントジャーニーを活用するためには、まずは背景や意義などを正しく理解することが大切です。そこで本記事では「なぜペイシェントジャーニーが必要とされるのか」という背景から解説します。
(Prospection株式会社 カスタマーサクセス プリンシパル 高橋洋明)
ペイシェントジャーニーとは?
ペイシェントジャーニー(Patient Journey Map, Healthcare Process Mapping)は、診療を受ける患者さんが、どのようなジャーニーを経るのかを明確にし、診療全体のあらゆる場面で、患者さんが病院や医療の仕組み、診療に関連する情報とどのように関わるのかをよりよく理解するために使用する演習のことをいいます。もともとは、病院経営において医療提供者が診療を受ける患者さんのことをより深く理解するために行う取り組みから始まりました。
その後、製薬業界でも「患者さんの受診行動が自社製品の処方獲得と継続処方に直接影響を及ぼし、自社の業績にも関わる」という認識が広まり、ペイシェントジャーニーを重要視する機運が高まっています。ペイシェントジャーニーを把握することは、情報提供の質やタイミング、手法などの改善につながるからです。
ペイシェントジャーニーが必要とされる背景
製薬業界でペイシェントジャーニーが重要視されることには、たくさんの理由と背景があります。これらを正しく理解しておくことが、製薬企業のマーケティング担当者がペイシェントジャーニーを作成する際に必ず役に立ちます。そこで、まずはその背景を丁寧にみていきましょう。
医療機関の背景
医療機関の経営の安定と成長には、集患と患者さんの継続通院が欠かせません。そのために医療機関は、患者さんの受診行動を深く理解する必要がありました。
具体的には、患者さんが医療機関を受診する際、どのようにして必要な情報を収集し、どのように考え、その結果どこの医療機関を受診すると決めたのか、これらの一連の思考と行動のプロセスを全てつぶさに知る必要があったのです。
そこで参考にしたのが、当時異業種のマーケティングで用いられていた、消費者の購買行動を理解するためのカスタマージャーニーという手法でした。この考え方を医療の世界に応用したものがペイシェントジャーニーとして定着しました。
ペイシェントジャーニーを駆使すると、患者さんがどのような情報ソースから自身が必要とする情報を得ているのか、何を信用しているのか、などが分かるようになってきました。医療機関側はペイシェントジャーニーを用いることで、患者さんの受診行動と、その際の情報へのタッチポイント、そしてそれらのタッチポイントごとにどのような情報を提供するのが良い結果につながりやすいのかを、容易に、かつ明確に把握できるようになったのです。
その結果、患者さんとのタッチポイントにおいて、患者さんの状況に応じた最適な情報を提供し、適切に治療を受けていただくための行動を促す重要な施策を打てるようになりました。
このようにペイシェントジャーニーは、現在の医療機関の経営やマーケティングにおいて非常に重要な役割を担っています。
製薬業界の背景
一方、製薬業界では、Share of Voiceが隆盛を極めていた頃には、マーケティングプランもプロモーションも、人海戦術や物量作戦といったシンプルなもので十分結果が出ていました。
ところが、製薬業界を取り巻く社会環境や、国民医療費の増大、それに伴う医療制度などの変化によって、製薬企業の経営も舵取りが年々難しくなってきました。
例えば、「政府によるジェネリック医薬品の普及の強化」「毎年行われる薬価改定」「新薬創出加算の適用の厳格化」「医療技術評価による新薬の評価」などによって、医薬品の売上は伸びにくくなっています。これらの要因が複雑に相まって、ブロックバスターも生まれにくい状況です。新薬の研究開発型の製薬企業でも、収益を高めることが難しい状況が続いていることは、業界内でも広く知られているところです。
そのためマーケティング担当者も、自社の経営陣から、限られた予算内での一層効率的な予算活用や成果の最大化を短期間で実現するマーケティング施策の立案と実行を求められるようになってきました。
そこで、医師を理解することだけにとどまらず、患者さんについてもより深く理解することで、疾患の市場のセグメンテーションやターゲティング、ポジショニング、メッセージングなどの精度を高め、自社製品の売上を伸ばす取り組みが広がり始めました。
しかし、本来製薬企業は、診療の実態を知ることが非常に困難です。ご存知の通り、MRが知り得る患者さんの情報は医師から伝え聞く情報が大半で、MRが患者さんから直接話を伺うことは固く禁じられているからです。さらには、医療機関による訪問規制強化は継続しており、MRが医師と思うように面談することもままならない状況が続いています。そのため、現場からの医師や患者さんのニーズの把握も難しい状況です。
そこで、患者さんの受診行動を分析し、自社製品のマーケティングプランの精度を高める取り組みとして、患者さんに関するさまざまな情報を収集し、プランニングに活かすペイシェントジャーニーが用いられるようになりました。
患者さんの環境変化
従来患者さんは、どこの医療機関を受診しようかと検討する際、多くの場合は身内や知り合いからの口コミなどの情報、あるいは自治体や医療機関の広報などを手掛かりにして、受診する医療機関を決めていたようです。少なくとも筆者が子供の頃、父母や祖父母、その他周りの大人たちが医療機関を受診する際には、そのような情報収集活動をしていました。
近年、インターネットやSNSが発達したことから、患者さんは情報収集する際にさまざまな方面から容易に情報を得られるようになりました。もちろんそれらの情報は玉石混交であり、その状況はますます混沌としています。
そして、情報の正確性を吟味することは難しく、患者さんを悩ませます。そのため、患者さんはさらに情報を収集しようとさまざまなチャネルにアクセスしていきます。インターネットの発達と情報の氾濫によって、医師や患者さんが診療に関するさまざまな情報を入手しやすい環境、すなわち、SNSなどのタッチポイントが大幅に増えてきました。
臨床現場では、検査法や治療法、新薬などの開発が進んでいます。医療のシステムの面では、地域包括ケアシステムの浸透に伴い主治医が病院の勤務医から在宅医に変更になるなど、患者さんが受ける診療プロセスも複雑化してきました。
医療機関と製薬業界のペイシェントジャーニーの違い
医療機関だけでなく製薬企業でも活用されるようになったペイシェントジャーニーですが、両者のペイシェントジャーニーには違いがあるように感じます。医療機関はペイシェントジャーニーを日常診療でどのように活用しているのでしょうか。
例えば医療機関では、患者さんは初診時に問診票を記入します。その中には住所や連絡先の情報も記述する箇所があります。なぜこのような記述が求められるのでしょうか。
もちろん「何かあった時に連絡できるように」、「訪問診療や往診の際に患者さんの自宅に行けるように」という目的もあります。これらの理由のほかに、医師・看護師は大切なことを見ています。それは「この患者さんは、自院に継続して通院できるだろうか?」ということです。
具体的には「患者さんは一人でも通院可能か」「歩くことに不自由しているなら、家族が付き添いしてくれるか?それは家族にとって負担になっていないか?」「患者さんとご家族の人間関係は円満か?」といった、患者さんの歩行能力や関係者の治療・通院の負担を評価しています。特に地方の場合、患者さんの住所によっては通院が大変なことがあり、それが通院の妨げになることで治療が期待通りにうまくいかなくなることも起こります。
このように医療機関では、外来でも病棟でも、患者さんの付き添いやご家族のお見舞いの状況を細かく見ています。すなわち、医療機関では患者さんを全人的に見ていて、患者さんの生活に基づくペイシェントジャーニーを踏まえつつ、患者さんの生活の中で診療をどのように行なっていくかを考えているのです。
一方、製薬業界で活用されているペイシェントジャーニーは、医薬品が処方される場面にフォーカスしているものが大半で、患者さんを全人的に見ているものがあまり見受けられません。患者さんの生活を見ておらず、診療ガイドラインや実際の診療プロセス、そして医師の意思決定プロセスだけを見ている場合もあります。
このようなペイシェントジャーニーの活用法の場合、医師が医薬品を選択する際の差別化ポイントを医師にどのように伝えるのかという手段の話になってしまいます。これでは患者さんの行動が十分に把握できず、医師の共感を得るマーケティングも難しいでしょう。そのため、結果が出ないペイシェントジャーニーになってしまうのです。
ペイシェントジャーニーを作成する際、患者さんの受診行動だけを追えば良いのではないかと考えるマーケティング担当者もいるかもしれません。しかし実際の患者さんは多様で、さまざまな情報などに翻弄される存在です。本来あるべきペイシェントジャーニーの検討のあり方は、患者さんを全人的に捉え、あるがままに把握することが重要です。
ペイシェントジャーニーは患者さんを取り巻く環境の変化によってますます必要とされている
医療機関、製薬業界、患者さんそれぞれが抱える複数の要因が相まって、患者さんの受診行動の実態が見えにくくなったことで、製薬企業から患者さんに情報を届ける際、どのようなアプローチが最も効果が高いのかなどが分かりにくくなっています。
そのため、製薬企業のマーケティング担当者は、マーケティングプランの実行の際に、どこにリソースを投入していくかの判断に迷うことが多いのではないでしょうか。そうした背景もありペイシェントジャーニーが重要視されるようになりましたが、成果につながる適切なジャーニーの活用まではまだ道半ばです。
次回は、ペイシェントジャーニーを一層深掘りし、その価値を一緒に理解していきましょう。