メディカル・アフェアーズは、現在では製薬企業にとって一般的な組織になりました。このコラムでは筆者の経験を踏まえ、これからのメディカル・アフェアーズに期待される機能について考察します。
最終回の今回は、患者のインサイトにフォーカスします。患者は、医療の最終消費者であり医師と両輪を成す顧客の構成要素です。その患者のインサイトがいかにマーケティングにとって重要なのか、そして患者インサイトを把握するためにメディカル・アフェアーズがどういった役割を演じることができるのか、を考察します。
(トランサージュ株式会社 代表取締役 瀧口 慎太郎)
患者のインサイトがなぜ重要なのか
「使う薬を決めるのは患者ではなく処方医なのに、患者インサイトを何に使うのですか」
しばしばこういった質問をいただきます。この質問の答えには大きく2つの背景が関係すると考えています。ひとつは「デジタルテクノロジーの進化によって、誰もがいつでもどこでも同じ情報を入手し、共有できる」ようになったこと、もうひとつは「多くの新薬がプライマリ領域からスペシャリティ領域に軸足を移している」こと、です。
デジタル・テクノロジーの進化が患者の立場に与えた影響
テクノロジーの進化は、マーケティングへの影響だけでなく、医療における患者さんの立場にも大きな影響を与えました。昔ながらの上司に「上からの情報をまずは独り占めして、下に小出しにする」というタイプがいました。もうこうした管理職は存在しないと思いますが、このタイプの上司は、自分だけ多くの情報を持っていることで、部下に対して優位な立場をようやく保っていました。まったく同じことが、医師と患者の関係にも存在したと考えられます。「あなたは患者さんだから、医者である私のいうことを聞いておけば間違いはないんです」といった権威主義的なパターナリズムも、いまだに存在します。こうした医師患者関係論については別の機会にお話ししたいと思いますが、テクノロジーの進化は、この医師と患者の立場に確実に大きな影響を与えました。
例えば、最新の診断や治療などに関する医療情報のほとんどは、以前は医師などの限られたスペシャリストだけが独占的に閲覧共有できていました。でも今では、スペシャリストでも何でもない(わたしの様な)一般市民も、いつでもどこでもその気になれば閲覧共有が可能です。この変化は、医療情報の「量」に関して、患者は医師にほぼ対等な立場を得たと言えます(もちろん、いかに高品質で多量な情報を得ることができても、理解し使いこなせるという点で、多くの場合は両者に違いはあります)。
そしておそらく医師や医療機関にとってさらに脅威なことは、実際の患者さんの受診経験や評判の共有です。食べログほどではないですが、既にクチコミを参考に医療機関を選択する患者は確実に増えていて、クチコミという武器は、さらに患者さんの立場を押し上げています。無用問答のパターナリズムで医師が患者さんを押さえつけるという前時代的行為が、いつまで可能なのでしょうか。
プライマリからスペシャリティへの軸足の移行が与えた影響
患者インサイトが重要な理由のもう一つは、新薬開発におけるプライマリからスペシャリティへの軸足の移行にあります。脂質異常症や高血圧などのプライマリ領域の診療では、診療ガイドラインに定められた判断基準(血圧や脂質の基準値など)によって確定診断が下され、合併症などのリスクファクターや重症度などに合わせて治療方針や処方薬剤も速やかに決定される、といったケースが多くの患者さんに当てはまります。
一方、たとえば血液疾患などスペシャリティ領域の診療では、ガイドラインが示されていても個々の患者さんの状態によって診断自体が非常に難しいケースが少なくありません。また、希少疾患では診療ガイドラインが存在しないことも多々あります。つまり、スペシャリティ疾患ではEBMの活用が難しい場合が多々あり、その分、患者さん個々の状態をより深く見つめて、確定診断や治療方針の決定を行う必要があります。
しかし、こんな疑問も出るかも知れません。
「患者さん個々の状況を見る必要があるのは分かるが、患者さんの不安やニーズ、つまり心の内のインサイトまで把握する必要はあるのだろうか」
その疑問にお答えするために、たとえば「治療を選ぶ」というシーンを考えてみます。オンコロジーなどの治療では、その選択肢を挙げるのは医師ですが、最終的に治療方法を選ぶことは患者や家族に委ねられます。治療や使用薬剤の選択について、患者さんの同意書が必要な場合も少なくありません。つまり、治療に対して患者さんが抱く期待や不安などのインサイトは、患者さんによる治療の選択を大きく左右する要素になっている可能性があります。したがって、ここでの患者インサイトを把握して、自社の製品戦略への影響を考察することが重要なことは、お分かりいただけるかと思います。
患者インサイトを把握する手法
本コラムの第3回 では、医師のインサイト把握のためには、メディカル・アフェアーズやマーケティングも含むクロス・ファンクショナルなアプローチが有効だ、というお話をしました。しかし、患者さんと直接の交流機会をほとんど持たない私たちにとって、患者さんのインサイトを把握することは医師のインサイトの把握より難しい面があります。
アンケートやインタビュー調査の限界
患者インサイトを把握する最も一般的な手法が、患者さんへのインタビューやアンケートといった調査です。外部の市場調査会社へ患者調査として依頼することが最も一般的ですが、患者会が存在する場合にその会に加入している患者さんに協力を依頼して、調査を実施するケースも少なくありません。ただ、こうしたインタビューやアンケート調査という手法にも、正確なインサイトを引き出すためには限界があることは頭に留めて置いてください。その第一がバイアスです。たとえばインタビュアーを前にすると患者さんが事実とは少し違う取り繕った回答をしたり、インタビュアーの先入観でインタビューの内容が誘導的になったり、など、さまざまな点でバイアスが存在する可能性があります。
Yahooが2014年に行った調査バイアスに関する分析 1) に、興味深いものがあります。Yahoo社の登録顧客の中で過去1年以内に新車を買った人に「あなたはいつからその車について調べ始めましたか」というアンケートを実施しました。
アンケートによりスクリーニングした1年以内に新車を購入した人
<調査手法>
1. アンケートにより新車を購入した時期を聴取
2. 回答者ごとに検索ログデータから自動車に関する検索を開始した時期を調査
<調査時期>
2014年10月
この質問に、約7割の回答者は「購入前の4ヶ月以内に購入を検討開始する」と答えています。それに対し、検索ログデータを確認すると、その多くは4カ月よりもさらに前から検索をスタートしていたことがわかりました。つまり、この分析でわかることは、回答者には自分の思い違いや思い込み、つまりバイアスがあり、アンケート調査でいつも正解を得られるものではないという事実です。
エスノグラフィー(行動観察調査)のメリット・デメリット
こうしたインタビューやアンケート調査以外に、エスノグラフィーと言って、顧客グループの生活に密着して行動観察をする方法もあります。もともと文化人類学などの学術調査で用いられてきた手法だそうですが、最近ではマーケティングで用いられるケースも増えています。また、シャドーイングといって、対象顧客に一日中張り付く、あるいは実際に顧客になって追体験をすることでインサイトを把握する方法もあります。これらの方法では調査のようなバイアスが入りにくく、患者の深層心理的なインサイトも把握が可能になります。ただし、実際に顧客の中に入り込み行動観察やインタビューを行ったり、顧客にずっと張り付く必要があるため、時間もかかり調査実施数も限られてしまうというデメリットもあります。
ソーシャルリサーチという新たな手法
トランサージュ社がご提供しているサービスのひとつに、ペイシェント・リーダー ® があります。これは一般的に「ソーシャル・リサーチ」と言われる手法を用いて、Twitterやブログ、Q&A サイトなどのソーシャルメディアで無数に発信されている投稿の中から、特定の疾患の患者さんやその家族の投稿を探し出します。この手法が可能になったのはソーシャルメディアが普及したことが背景にあり、デジタル時代ならではの新しい調査手法です。
ペイシェント・リーダー ® の大きな特徴は、2億を超えるソーシャルメディア・ユーザーIDを母集団として、一般的な市場調査では難しい希少疾患を含めて特定の疾患の患者インサイトの把握を行えること、そして一般的な市場調査で起こり得るバイアスが入らず「ありのまま患者さんの声」を把握できること、にあります。こうした観点から、ソーシャル・リサーチは「どんなことが患者さんや家族の不安なのか」「患者さんはどんなニーズを持っているのか」といった患者インサイトの把握には、打って付けの手法の一つだといえます。
メディカル・アソシエイトが患者インサイトとどう関わるのか
患者さんのインサイトが重要なこと、そしてそのインサイトを考察するための有効な手法についてお話ししました。次に、患者さんと関わることのないメディカル・アソシエイトが、その患者インサイトにどう触れることができ、どう料理できるのか。その辺りを考えてみます。
医師は患者さんの話に興味がある
あるメディカル・アフェアーズの方がおっしゃっていた言葉が、今でも脳裏に強く残っています。「先生方は、薬の話には関心を示さないが、患者さんの話には関心を示してくれるんです」。その時の私の頭の中では「ああ、やはり、そうだろうな」という考えが巡りました。
医師が患者さんの声に興味を覚えるのは、なぜなのでしょうか。医師は、患者さんの課題の解決、つまり症状や病魔からの解放のために治療を施しています。その過程で医師は、診断のための検査、診断された病気、考えられる治療法、使用する薬剤など、多くのことを患者さんに説明する必要があります。一方、患者さんは医師による説明を受けて、この病院で治療を受けた方が良いのか、治療方法はこれで良いのか、使用する薬剤はどれが良いのか、などを選択する必要があります。またこの時、多くのケースで家族の意見もその決定に大きく影響します。しかし、いまだに患者さんの医師への遠慮は根強いものがあります。従って、医師は診察室での患者や家族との会話だけから、その本音を聞き出せる機会は少ないことも事実なのです。
ある希少疾患のオピニオン・リーダーがペイシェント・リーダー ® の結果をご覧になって「我々が知っている患者さんの行動や話の内容とは違う」と話されていたことは、このことを証明するひとつの事実で、この時のドクターのお話はいまも強く印象に残っています。
医師が患者を知らないことは医療ゴール達成にはデメリット
医師が患者さんの本音を知らないということは、医師が良かれと思って患者さんに行う治療が、実際には患者にとっては自分の期待とは違う、患者さんにとっての不利益を導いてしまう恐れがあります。例えば、患者さんの同意の元に、病気の器質的な進展を遅らせる効果が強い薬を選択したとします。でも、この薬は病態の進展抑制のためには良くても、自覚症状の改善はさほど強力でなかった場合、自覚症状が良くなることを優先して欲しい患者さんほど「この薬は効かない」と、その医師を避けることに繋がります。あるいは、他の先生のところへ転院し、別の薬をもらうといったことも起きてしまいます。
こうした患者の本音、「インサイト」は、治療選択だけでなくジャーニーフェーズ全体における患者さんの行動や心情だけでなく、その結果として現れる治療効果に大きな影響を与えます。デジタル時代になって、患者の立場が向上した、というお話をしましたが、別に石が患者に忖度する必要はもちろんありません。でも、患者さんやご家族の本当のニーズ、患者さんやご家族の一番の不安を知ることができれば、医師はより最適なソリューションを考察することができます。医師にとって最も困ることは、患者さんがいったい何を望んでいるかを窺い知ることができないことなのです。
医師と共に患者課題を考えることこそ、メディカル・アフェアーズの真骨頂
今回のコラムのテーマは、メディカルメディカル・アフェアーズに寄せる期待です。 第1回目のコラム では「製薬企業のマーケティング・ゴールは患者課題の解決である」というお話をしました。そして、最後の今回は、「患者の課題解決に直接当たっている医師の立場からは、実は患者さんのインサイトをなかなか分かり得ない」というお話をしました。そうであるならば、いっそのこと、医師と製薬メーカーの両者が一緒に市場を観察して、患者さんの課題解決に取り組む、という行動を始めてみてはいかがでしょうか。患者さんが何を望み、何を不安に思っているのか。どのタイミングで、何をきっかけに受診や治療の選択をして、どうして治療継続ができないのか。マーケティング戦略の始まりは、いつも市場を見ることです。これをスタートさせるためには、メディカル・アフェアーズが最も適した役割だと考えています。
たとえばソーシャル・リサーチなどで把握した患者インサイトは、きっと多くの医師に興味のある内容でしょう。患者さんの本音・気持ちを知りたいというニーズのある医師にその内容を共有して、一緒にディスカッションをするのはどうでしょうか。患者さんのインサイトをじっくりと観察し「どんな課題があり」「どんな方法でそれを乗り越えられるか」を一緒に考える時間を共有できれば、どれほどその医師と強固な関係性を構築することができるでしょうか。いまやSoVという武器を捥がれた製薬企業が医師との関係性を築く、ひとつの新しい方向性にならないでしょうか。
「コンプライアンスやプロモーションコードなど昔とは桁違いのいろいろなハードルがあって、そんなに簡単にはできない」という耳の痛くなるお話がたくさん聞こえてきそうです。しかし、新しいチャレンジにはハードルがつきものです。そして、そのハードルを超えなければ、新しい未来もありません。ハードル越えのための重要な要素は、皆さんの心の中にある、マインドセットです。チャレンジができる人は、変化を怖がらず、課題も楽しみに感じることができます(これは自分にも言い聞かせています)。
メディカル・アフェアーズが顧客の新しい体験創造の水先案内人になる!
コト消費からトキ消費やイミ消費へと変遷する現代において、顧客にとって重要な価値はUX(ユーザーエクスペリエンス)やCX(カスタマーエクスペリエンス)などに表されるような「新たな体験」だと言われています。わたし自身は、医薬品業界における新たな体験創造は、患者さんの課題を知ることから始まると考えています。長期的視点で製品バリューを構築する役割を担うメディカル・アフェアーズこそ、この視点での専門医とのディスカッションが可能で、これからのイノベーション創造の水先案内人となるはずです。そのためには、データや統計分析などのサイエンス面だけでメディカル・アフェアーズに必要なケイパビリティを語ることには賛成できません。むしろ、傾聴力や俯瞰力、文脈理解などといった文系的なケイパビリティを持ち合わせ、ドクターと患者さんの課題やその解決策を語り合うことができることが必要ではないでしょうか。
そんな活動が、むしろ地に足が付いた現実的な価値創造行為として、重要な役割になる気がしています。
このコラムをお読みいただいてどうもありがとうございました。もしこのコラムに書いたことにご賛同いただける方があれば、ぜひご連絡ください。お待ちしています。どうかみなさまもお体に気をつけて、楽しく仕事をお続けください。近い将来に、お会いできる機会を楽しみにしています。
<参考>※2021年9月30日閲覧
1) 「Yahoo! JAPANの検索ログデータで見る『購買プロセスにおける購入検討開始のタイミング』」Yahoo! マーケティングソリューション(https://marketing.yahoo.co.jp/blog/post/2015022030145518.html)
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