「ソーシャルマーケティング」という単語を聞いたことはありますか?あまり耳慣れない言葉かもしれませんが、マーケティングの考え方を使い対象者の行動や気持ちの変容を促すことができる手法として、生活習慣病予防やがん検診の受診推奨などヘルスプロモーション分野でも活用されています。本記事では、ソーシャルマーケティングの特徴や事例をご紹介します。
ソーシャルマーケティングとは
ソーシャルマーケティングとは、
社会的な課題の解決のためにマーケティングの考え方を応用する手法
のことです。
対象者をその特性や特徴に基づいてグループに分け、それぞれの人の気持ちを考慮したメッセージを作成するというマーケティングの考え方を用いて、対象者の自発的な行動を促すようなプログラムを計画する一連のプロセスを指します。
コトラーの提唱するマーケティングの本質
マーケティングは、もともと営利企業の活動として考えられてきましたが、次第にその応用範囲を広げつつあります。マーケティング論にはさまざまなものがあり、中でも有名なのは「マーケティング・マネジメント」です。
マーケティング・マネジメントとは、企業や組織内でのマーケティングの方向性、技術、方法の実用化、および企業のマーケティングリソースと活動の管理に焦点を当てたマネジメント分野のことです。それを体系化した研究者のひとりがフィリップ・コトラーです。
マーケティングといえば、一般的には企業における4P(商品<product>、流通<place>、プロモーション <promotion>、価格<price>)などに関わる要素を調整・管理する活動のことだと理解されます。
しかし、コトラー自身は、マーケティング・マネジメントを必ずしも企業(利益追求の組織)だけでなく、さまざまなタイプの組織に適用可能だとみなしていました。その組織と関わる相手の需要を創造したり、調整したりするのがマーケティングの本質と考えていたのです。
ソーシャルマーケティングの特徴
ソーシャルマーケティングの定義は様々なものがありますが、コトラーらによれば、共通する基本的な特徴は4つとされています。
- 考えの変化にとどまらず行動を変化させること
- システマティックに計画されたプロセスを用い、そのプロセスに商業マーケティングの概念や技法を適用すること
- 対象者をセグメントに分け、優先順位の高いセグメントを一つまたは複数選んで焦点をあてること
- 対象となる人々を社会に利益をもたらすものであること
ソーシャルマーケティングとマーケティングの違い
ソーシャルマーケティングと商業マーケティングの違いは、ソーシャルマーケティングにおいては、 ターゲットとなるユーザーが行動を変容することが自らの利益となり、さらには社会の利益になることで、その行動変容を提供する組織とwin-winの関係を構築すること であるとされています。
ソーシャルマーケティングの歴史
国際的にソーシャルマーケティングが主張され始めたのは1970年代です。当初はまだ、マーケティングのコンセプトを企業以外の組織に適用しはじめた段階でした。具体的には、非営利団体・演劇・大学・病院といった、それまで縁のなかった組織体にマーケティングを導入しました。
1980年代~90年代になると、ソーシャルマーケティングはよりプログラム志向になります。非営利のマーケティング活動において、高血圧啓発プログラムやエイズ予防プログラムのように、長期的に人々の行動を変容させる活動としてソーシャルマーケティングは新たな脚光を浴びはじめたのです。
日本のソーシャルマーケティングの始まりは、2000年からのエイズ啓発キャンペーンの実施といわれています。
厚生省と(財)エイズ予防財団は、エイズの予防に関するキャンペーン活動に取り組んでいました。厚生省告示によるセグメントの設定が行われ、青少年や同性愛者、外国人などの4グループに焦点をあてたキャンペーンを行いました。12月1日の世界エイズデーに合わせ、繁華街でイベントを実施し、プロ野球選手によるチャリティオークションなどが開催されました。
日本ユニセフ協会のソーシャルマーケティング成功事例
日本におけるソーシャルマーケティングの成功例として、日本ユニセフ協会の募金活動が挙げられます。
ユニセフは1965年にノーベル平和賞を受賞するなど、順調に世界から認められてきたように見えますが、実は国連の中ではユニセフ廃止の動きすらあったそうです。
日本でも、1980年代までユニセフの活動は知名度が高くありませんでした。しかし90年代に入り、貧困・武力紛争・HIV/エイズ・性的差別という4つの大きな問題の解決に迫られ、それまで行われていた募金活動だけでは資金がまかなえなくなりました。
コーズ・リレイテッド・キャンペーンの実施
そこでソーシャルマーケティングの一環として企画されたのがコーズ・リレイテッド・キャンペーンです。
コーズ・リレイテッド・キャンペーンとは、企業の広報・販売促進活動の中で社会貢献活動を行うものです。企業が行うPRやセールスプロモーションの中で、ユニセフの名前のもとに募金活動をしたり、あるいは収益を上げることを通じて、企業からユニセフに対価を支払います。
その結果、日本ユニセフ協会はユニセフの年間予算10億ドルの10%にあたる募金を集め、世界先進37力国の中で世界一の実績を記録しました。
日本ユニセフ成功の要因4つ
研究者は日本のユニセフ活動の成功を分析し、4つの要因を挙げています。
1. 明示された理念を基礎として「ユニセフは何をする組織なのか」を明らかにしたこと。
2. ブランド価値を大切にし、その価値を増加させるような活動に注力してきたこと。
ある研究報告によれば、ユニセフブランドを用いた寄付活動に対しては他の援助組織のブランドよりも寄付金額が明らかに高くなるそうです。人々が参加したくなる、また参加した喜びを感じるようなブランドとして定着しています。
3. 市場調査を行い、市民の寄付活動に対する考え方を把握したこと。
市場調査の結果によると「管理費がかかる団体はダメ」と市民が考えていることがわかりました。このため日本ユニセフ協会では組織の透明性を高めることに注力したといいます。
4. 効果的なコミュニケーション
効果的だったのは、支援者へのダイレクトメール(DM)だそうです。海外のDM企業のノウハウを使いながら、決して捨てられないように一人一人に合わせて最適化された内容のDMを年2回発送し、領収書を送付するときは必ず「成果」を添えた報告をしました。
この結果、ユニセフへの寄付に占める個人や学校の割合は85%を占め、企業の15%を大きく上回りました。市民ひとりひとりの厚意を引き出したコミュニケーションに成功したのです。
このように、自らが何を行う組織かを明確に打ち出し、ブランドを大切にする活動に注力したことで、日本ユニセフ協会は募金活動においても大成功を収めることができました。
乳がん検診受診率向上プロジェクトの事例
最近の事例では、2016年の乳がん検診の受診率向上のためのプロジェクトで、ソーシャルマーケティングのアプローチが採用されました。
厚生労働科学研究費補助金がん臨床研究事業「受診率向上につながるがん検診の在り方や、普及啓発の方法の開発等に関する研究」班において、行動変容の理論に基づいた地域介入研究で使用された結果、乳がん検診受診率の向上がみられたといいます。そのフローを分解してみます。
1. 心理・行動特性に応じてセグメントに分ける
このアプローチでは、まず目標意図(検診を受けるつもりであるという行動そのものの意図)・実行意図(いつ、どこで検診を受けるかという具体的な計画の意図)・がん脅威(がんに対する恐怖心の有無)を用いて対象者セグメンテーションが作成されました。
対象者セグメンテーションとは、ヘルスプロモーションやヘルスコミュニケーションの分野において、効果的なキャンペーンを計画する際に用いられる方法です。
具体的には、以下3つのセグメントが作成されました。
- セグメントA…検診受診の意図が高い
- セグメントB…受診意図が低くがんに対する恐怖心が強い
- セグメントC…受診意図が低くがんに対する恐怖心がない
2. セグメントごとの特性に合わせたメッセージを作成
ソーシャルマーケティングの手法により、セグメントごとの心理・行動特性をインタビュー調査で調べ、それぞれのセグメントに合わせた乳がん検診受診を勧めるメッセージとデザインが開発されました。そして、そのメッセージとデザインが異なる3種類のリーフレットを、それぞれのセグメントに配布しました。
心理・行動特性 | リーフレットの内容 | |
A |
・乳がん検診の重要性をすでに理解している
・受診に対する面倒くささを感じている |
・がんに対する罹患可能性と重大性、がん検診を受けることでの便益に関する情報を最小限にする
・検査手順のフロー図式化と連絡先を明記する |
B |
・がん検診の受診意図が小さい
・乳がんは怖いけれどがんが発見されることに対してより恐怖を感じている |
・「日本人女性の20人に1人が乳がんになる」という罹患可能性を示しつつ、がん検診を受診することの便益を積極的に示すメッセージ
・イラストを中心とした優しい印象となるデザイン |
C |
・がん検診の受診意図が小さい
・がんに対する脅威も小さく、「自分は、大きな病気になったことがないから乳がんにはならない」と考えている |
・「日本人女性の20人に1人が乳がんになる」という罹患可能性を示した上で、がん検診を受診しなかった場合の損失を示すメッセージ
・濃い青色でレントゲン写真を使用することで深刻さを強調するデザイン |
結果
無作為比較試験で検討した結果、対象者の心理・行動特性を考慮しないメッセージ(コントロール群)に比べて、セグメントに合わせたメッセージ(テイラード介入群)では受診率が有意に高いという結果が得られました(受診率:コントロール群5.8%に対してテイラード介入群19.9%)。
対象者の行動を変える目標を具体的に設定し、対象者にリーチする方法を開発(各セグメントに対応するメッセージを作成して送付)したことが、実際の行動変容を可能にしたと考えられています。
ソーシャルマーケティングの考え方を患者啓発企画に応用してみる
社会的な問題を解決するために行われるソーシャルマーケティングは、ヘルスプロモーションの分野でも活用されてきました。個人の行動変容を促すソーシャルマーケティングの考え方や事例は、製薬企業の医薬品マーケティングにとっては患者啓発資材の企画などの参考になるのではないでしょうか。
【参考】
・⾏動科学やナッジ、ソーシャルマーケティングを活⽤したがん検診受診勧奨の取り組み/第28回がん検診のあり⽅に関する検討会
https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/000514745.pdf
・Lee NR, Kotler P, Social Marketing: Changing Behaviors for Good, Fifth ed., 2016; SAGE Publications, Inc.
・島崎崇史, 健康心理学を応用した健康づくりメッセージおよび情報媒体のデザイン, Journal of Health Psychology Research, 2016; 29 巻, Special_issue 号: 119-129.
・田中洋, 4.ソーシャル・マーケティング, 繊維製品消費科学, 2001; 42(3): 140-146.
・平井啓,健康心理学的介入における情報伝達の在り方――ソーシャル・マーケティングと行動経済学――, Journal of Health Psychology Research, 2016; 29巻, Special_issue号: 113-117.
・平井啓, 谷向仁, ほか, メンタルヘルスケアに関する行動特徴とそれに対応する受療促進コンテンツ開発の試み, 心理学研究, 2019; 90(1): 63-71.
・Hirai K, Harada K, Seki A, et al. Structural equation modeling for implementation intentions, cancer worry, and stages of mammography adoption. Psycho-Oncology, 2013; 22(10): 2339–2346.
・溝田友里,藤野雅弘,山本精一郎, コミュニケーション戦略としての科学的根拠に基づくがん予防・がん検診受診の推進, 医療と社会, 2020: 30(3):321-338.
・平井啓, がん検診受診率向上のための行動変容アプローチ, 行動医学研究, 2015: 21(2): 57-62.